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廣瀬店長の憂鬱

吉田松陰。

1800年代、西洋の有力な国々はアジアへ進出し、植民地化を計っていた。

その外圧は、幕末の日本をも脅かす事となる。

この危機の中、一人の天才少年が、萩(山口県)に生を受けた。

維新の先駆者、『吉田松陰』である。


彼は幼い頃より周囲から期待されたが、国を憂いて脱藩の道を選ぶ。

諸国を旅した後、得た知識を活かして『松下村塾』を引き継ぎ、多くの少年達を指導した。

その門下生には『高杉晋作』・『久坂玄瑞』・『伊藤博文』などの、幕末維新の俊英達がいた。


松陰は『来るものは拒まず。』の方針を貫いたという。

当時、萩城下には、藩校・明倫館があったが、入校者は武士の子弟に制限されていた。

彼は、身分の低い生まれで、学業を志す者達にも学ぶ機会を与えたのである。

その為、多くのそういった若者達が門を叩いたという。

また、身分の高い者でも、松陰の人柄に吸い寄せられ、集まったらしい。

そして松陰はまず、塾生間の身分の差をなくすことに努めた。

友情の育みにつながると考えた為である。

また自らも塾生達を『友人』と呼び、子弟関係を避けたという。

時間割も、おおらかだったらしい。

早朝でも夜中でも、塾生が集まれば授業を行った。

このスタイルは、仕事を持つ生徒に合わせての事であった。


松陰は塾生達にこう語ったという。

『自分は十分に教える事は出来ない。が、一緒に勉強する事は出来ます。』と。


人間の『主体性』・『実践』・『信頼関係』を尊重し、自らもそう努めた松陰。

彼の時代の改革を叫ぶ声は、過激であるとされ、世に言う『安政の大獄』により、江戸伝馬町の獄舎に捕らわれる。

1859年、獄舎にて処刑。29歳。


松陰はこの時、2つの句を詠んでいる。

『親思ふ こころにまさる 親ごころ けふの音づれ 何ときくらん』

「父・母のことを心配する私よりも、もっと心配して下さる、お父さん・お母さん…。
今日、私が死んだと聞いて、どんなに悲しまれることだろう…。」

親よりも先に逝き、不孝してしまう事を嘆いた詩である。


そして辞世の句。この詩が、日本に眠っていた若き志士達を、奮い立たせた詩である。

『身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂』

「この身はたとえ、この武蔵の野辺に死に絶えても、私の大和魂はいつまでもこの国で生きて行くのだ!!」

情熱の溢れるこの詩に、自分は今まで何度も泣いてしまった。


松陰は処刑される前に、幕府の役人達にこう語りかける。

『私達の祖先達が永きにわたり、暮らし慈しんだこの大地、またこの先に子孫達が、守り慈しんでいかねばならぬ、愛しき大地この日本を、どうか守って下さい!!
百年後…二百年後の人々の為に…。』と。

自分達の『今』があるのは、彼の叫んだ『愛』のお陰であると、しみじみ思うのである。
by heartstrings_3 | 2007-05-24 20:55 | 日本史
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