廣瀬店長の憂鬱

カテゴリ:日本史( 5 )

終戦記念日。

日本がポツダム宣言を受諾・降伏して、今年で62回目である。

『太平洋戦争』、この戦争の為にどれほどの多くの人々が犠牲になったのだろう。

その悲痛な思いは、体験した方々にしか分からない事。

我々に出来る事は、その過ちを再び犯さない事。

しかし悲しい事に、世界ではまだまだ戦乱が続いている。


中島みゆきの歌に、『僕たちの将来』と云う曲がある。

その一節に、

青の濃すぎる TVの中では まことしやかに暑い国の戦争が 語られる

僕は 見知らぬ 海の向こうの話よりも この切れないステーキに腹を立てる


とある。


人はついつい、目の前の出来事に夢中になりがちだが、もっともっと遠くに目線を向けたら…。


何か、心の底から銃器を捨てさせる術はないものだろうか ?

日々ニュースを見たり、今日のような日を迎えたりすると、自分が何を出来るかを考える。

気持だけ逸る。

が、一つ思う事がある。

もし、世界の誰もが皆、出会えたなら…。

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現在戦争中の国々に、1日も早く終戦記念日が訪れますよう。

笑顔の絶えない国として、再興されるよう。

また新たに争いが起きないよう。


世界の全ての戦没者の方々に誓います。

戦争の無い、平和な未来を願い、目指す事を。
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by heartstrings_3 | 2007-08-15 19:30 | 日本史

吉田松陰。

1800年代、西洋の有力な国々はアジアへ進出し、植民地化を計っていた。

その外圧は、幕末の日本をも脅かす事となる。

この危機の中、一人の天才少年が、萩(山口県)に生を受けた。

維新の先駆者、『吉田松陰』である。


彼は幼い頃より周囲から期待されたが、国を憂いて脱藩の道を選ぶ。

諸国を旅した後、得た知識を活かして『松下村塾』を引き継ぎ、多くの少年達を指導した。

その門下生には『高杉晋作』・『久坂玄瑞』・『伊藤博文』などの、幕末維新の俊英達がいた。


松陰は『来るものは拒まず。』の方針を貫いたという。

当時、萩城下には、藩校・明倫館があったが、入校者は武士の子弟に制限されていた。

彼は、身分の低い生まれで、学業を志す者達にも学ぶ機会を与えたのである。

その為、多くのそういった若者達が門を叩いたという。

また、身分の高い者でも、松陰の人柄に吸い寄せられ、集まったらしい。

そして松陰はまず、塾生間の身分の差をなくすことに努めた。

友情の育みにつながると考えた為である。

また自らも塾生達を『友人』と呼び、子弟関係を避けたという。

時間割も、おおらかだったらしい。

早朝でも夜中でも、塾生が集まれば授業を行った。

このスタイルは、仕事を持つ生徒に合わせての事であった。


松陰は塾生達にこう語ったという。

『自分は十分に教える事は出来ない。が、一緒に勉強する事は出来ます。』と。


人間の『主体性』・『実践』・『信頼関係』を尊重し、自らもそう努めた松陰。

彼の時代の改革を叫ぶ声は、過激であるとされ、世に言う『安政の大獄』により、江戸伝馬町の獄舎に捕らわれる。

1859年、獄舎にて処刑。29歳。


松陰はこの時、2つの句を詠んでいる。

『親思ふ こころにまさる 親ごころ けふの音づれ 何ときくらん』

「父・母のことを心配する私よりも、もっと心配して下さる、お父さん・お母さん…。
今日、私が死んだと聞いて、どんなに悲しまれることだろう…。」

親よりも先に逝き、不孝してしまう事を嘆いた詩である。


そして辞世の句。この詩が、日本に眠っていた若き志士達を、奮い立たせた詩である。

『身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂』

「この身はたとえ、この武蔵の野辺に死に絶えても、私の大和魂はいつまでもこの国で生きて行くのだ!!」

情熱の溢れるこの詩に、自分は今まで何度も泣いてしまった。


松陰は処刑される前に、幕府の役人達にこう語りかける。

『私達の祖先達が永きにわたり、暮らし慈しんだこの大地、またこの先に子孫達が、守り慈しんでいかねばならぬ、愛しき大地この日本を、どうか守って下さい!!
百年後…二百年後の人々の為に…。』と。

自分達の『今』があるのは、彼の叫んだ『愛』のお陰であると、しみじみ思うのである。
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by heartstrings_3 | 2007-05-24 20:55 | 日本史

竹中半兵衛。

戦国時代を代表する軍師である。

豊臣秀吉の若き頃の、立身の立役者であった。

半兵衛は、美濃国(岐阜県)斉藤氏の配下、重元の子に生まれた。本名、重治。

斎藤家重臣で美濃参人衆の一人、安藤守就の娘を娶る。

彼は痩せ型で大人しく無口であった。

そのため、『青びょうたん』と呼ばれ、主君の斎藤龍興や重臣達にも軽んじられた。

半兵衛の名を高らしめた事件の一つに、こんなエピソードがある。

ある日下城する彼に、誰かが矢倉の上から小便をかけた。

彼は何も言わず、そのまま帰宅した。そんな彼を、誰もが臆病者とあざけった。

無念を晴らすべく、彼は安藤守就を訪れ、主君斎藤龍興とその近臣を見返す計略を立て、話した。守就は彼を諫めたが、受け入れなかった。

永禄七年(1564年)、家来わずか十七人で登城し、油断している城内で家来を率い、手当たり次第に切り伏せる。城内は突然の出来事に大混乱である。

龍興は降伏し城を退去した。

難攻不落の稲葉山城を、わずかな手勢で陥落させた彼の噂は、斉藤家の宿敵『織田信長』の耳にも届いた。

是非とも配下に欲しいと考えた信長は仕官を勧めるのだが、半兵衛は稲葉山城を龍興に変換し斎藤家を出て隠棲する。

その後、斉藤家は信長により滅ぼされる。さらに織田家は畿内各地を転戦する。

朝倉・浅井攻めの際、信長に調略を命じられた秀吉は困り果て、半兵衛の力を借りることにした。その秀吉の懸命の説得に、人となりを気に入った半兵衛は、秀吉の軍師になる事となった。

それからは、合戦経験の少ない木下(秀吉の当時の姓)勢に、陣の位置取りや軍勢の進退についてなど、キメ細かい軍略を用いて大いに助けた。


半兵衛の『軍師たるや』の徹底ぶりは凄い。

秀吉が織田家の中で頭角を現して来るや、重臣達からの反感を買わない様、懐柔策を提案する。

それは、当時『木下藤吉郎』と名乗っていた秀吉の、姓の改名である。

織田家臣団筆頭格の、柴田勝家と丹羽長秀から一字ずつとると云う助言をしたのだ。

その案に従い姓を『羽柴』に改めると、重臣達の態度も軟化したという。

信長に対しても、息子を養子にもらうよう進言。保険をかけさせたのである。

秀吉は己の実力もそうだが、こう云った半兵衛の思慮深さの功により、歴史に名を残す活躍が出来たのである。


半兵衛の人柄は、温厚で情け深かったと言われている。

ここでも一つ、エピソードがある。

信長に謀反した荒木村重と云う武将がいた。彼を説得する為、『黒田官兵衛』と云う秀吉配下のもう一人の軍師がその任に当たった。

しかし、官兵衛は城内で捕縛されてしまう。

なかなか戻らない官兵衛を、『裏切った』と短気な信長は怒り、秀吉に官兵衛の息子の殺害を命じる。

が、半兵衛は秀吉に偽の首を進呈。

己の危険を顧みず、命がけで匿うのである。

その後、官兵衛は帰還。その息子は、後の『黒田長政』である。

官兵衛にとって半兵衛は、先輩であり、軍師としての先生であり、命の恩人であった。

よく、半兵衛と官兵衛を『秀吉の二大軍師』などと呼ぶが、実際に二人同時に秀吉に仕えていたのはわずかな時間であったようだ。

このわずかな時間の中で、官兵衛は半兵衛から多くの事を学び取ったと言われている。

(天正七年)1579年、半兵衛は播州三木城包囲攻めの最中、付城の平山城の本陣にて発病する。秀吉の勧めで京都へ療養に赴いたが、回復の望みが無い事を悟り、『陣中に没する事こそ武士の本懐』と言って戦場に戻る。

六月十三日、己の望み通り陣中で没する。

三十六歳。


私利私欲無く、軍師としての美学を求め続け、戦国時代を生きた漢。

彼には現代人の自分達にも、多くの学ぶべき点があると思える。

竹中半兵衛
高橋 和島 / / 学習研究社
スコア選択: ★★★★★
名軍師の生き様がたっぷり描かれている1冊。
是非!
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by heartstrings_3 | 2007-04-23 04:55 | 日本史

真田幸村。

歴史カテゴリでは、初めての試みである。最初なので迷ったが、大河ドラマ『風林火山』にも登場する『真田幸隆』〝孫〟にスポットを当ててみた。

ご存知、天下統一を目前にした『徳川家康』の野望に最後まで立ちはだかった武将である。
講談や小説によっては、家康が討ち取られているものまであるぐらいだ。ん~実際の処は現場にいた訳ではないので判らないが、面白おかしく物語りを造る上での虚空であろうと思う。

そもそも『幸村』と云う名前は、江戸後期に作られたもので、本名は『信繁(のぶしげ)』だったらしい。だが何故、『幸村』なのかは分からない。

真田家は初め『武田信玄』に仕えたが、武田家が滅び後の織田家が滅ぶと、主家を転々と変える。信州真田領は強敵に囲まれた弱小国であったが、時勢と各国の関係などを鋭く読み取り事態に対応して行く。
1585年、当時の主家であった徳川家が、真田家の所領を無断で北条家に割譲しようとした為、真田家当主・『真田昌幸』は徳川家から離反し、『上杉家』へ臣従。その事に腹を立てた家康が兵を挙げると、これを不利な状況にも関わらず知略を尽くし撃退する。真田家の醍醐味はここにあると言えよう。同年主家を、中央で実権を握りつつあった『豊臣家』に変え、徳川の武力行使を封じる。この出来事が、真田対徳川の因縁の始まりでもあった。

後に、人質として幸村は豊臣家に差し出されるのだが、この頃の出来事や豊臣家重臣達との関係が、彼の運命を定めるのである。最たる部分、それが『豊臣家への忠義』である。

秀吉が死に『関ヶ原の戦い』においては豊臣方へ付き、地元上田城を攻めに来た徳川秀忠に大損害を与え、秀忠を遅参させる。が、結果豊臣方は負け、幸村は蟄居の身となってしまう。この時、兄の『信幸』は徳川方に付いていた為、後々まで真田の血は残る事になった。

徳川の世と云う風評が高まると、豊臣家も退いてはいられない。
太閤夫人は怒り狂い、『打倒徳川』の旗印を掲げる。豊臣家は浪人集を呼び寄せる訳だが、その中に『真田幸村』がいるのである。紀州九度山で蟄居の身ながらも機を伺っていた彼に、大阪城への召集命令が届き、馳せ参じるのある。家康が最も恐れていた男の登場である。

いざ決戦〝大阪冬の陣〟が始まると、大阪城南に『真田丸』を築き幸村は奮闘するが、豊臣家トップの連中は不甲斐無く、和平交渉に乗り出す。この時幸村がトップで、和平など持ちかけずに戦を続けていたなら、もしかしたら勝てたのでは?と思う。

最終決戦〝大阪夏の陣〟でも幸村は奮闘し、家康をあと一歩の処まで追い詰めるが力尽き、48歳の生涯を閉じる。そして大阪城は落城し、豊臣秀頼は自害。徳川家のしこりが無くなり、世が治まる訳である。

打倒家康に燃えたその生涯。負けながらも伝説になった男の魅力は、その人身掌握術と知略にあると言えよう。幸村の部下達は彼の戦死時も逃げる事無く、ともに果てたと云う。
柔和で心やさしい人物で、日常は穏やかでありながら、いざという時は武勇を発揮する。その性格が多くの人から信頼を集めると云った、カリスマ的な要素があったのであろう。

また『忍者』の存在や『真田十勇士』と云った物語も、幸村をより魅力的な人物として引き立てる要素である。『津本陽』著の『真田忍侠記』では、十勇士の一人『猿飛佐助』が忍術で遠方の人物を『呪い殺す』などと云う、離れ業もやってのける。なら、家康も呪い殺してしまえと思うのだが、『それは殿のお望みでは無い。』などと、まるでチンプンカンプンな事を抜かすのである。
自分が幸村であれば、乱用していたに違い無い。

それ程過剰に描かれているくらいに、戦国最後の猛将『真田幸村』の魅力は、現代においても尽きないのである。

機会があれば是非とも小説など読んで頂き、その人となりを知って欲しいと思う一人である。

真田太平記
池波 正太郎 / / 新潮社
スコア選択: ★★★★★

真田家を知る上での名作。全12巻。池波ワールドが面白い!

真田忍侠記
津本 陽 / / 講談社
スコア選択: ★★★★★

十勇士の活躍が描かれている作品。上下の2巻。忍者って凄い。


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by heartstrings_3 | 2007-03-14 12:30 | 日本史

歴史好き。

兎に角、戦国時代と幕末~明治時代が大好きである。

何故、こんなにも好きになったのかを時々考えるのだが、やはり父親の影響だと思われる。
山岡荘八/[著]の「徳川家康」を何度も読んでいた姿が記憶にある。
まだ小学生低学年だった自分には、全く関係の無い世界だった。
しかし中学生ともなると、ある程度の漢字も読めるようになり、宿題に「読書感想文」なども増え、取り敢えず近場の本でも読もうと云う動機がそもそもの始まりだった。

そして中学生と云えば「思春期」である。
歴史小説とは何とも官能的な言葉が多いのだ!
そのお陰もあって、まぁ読むこと読むこと。一月一回提出で良い読書感想文を、三回ぐらいずつ出してたのだ。結果、国語の先生は「廣瀬を見習え!」的な発言をし、クラスメイトからは「余計な事してんじゃねえよ!」的な非難があったのを覚えている。

更には、GAMEなどの後押しもあったのである。「信長の野望」「維新の嵐」などがいい例であり、友達同士で夜通し対戦プレイし、絶交することもあったぐらい熱くなった。メジャーで無い武将・人物の名前を、大体はGAMEで憶えたのである。

高校生になると、また歴史担当の先生が凄く面白い先生で、教科書に載ってないマニアックな話を延々と聞かせてくれるのだ。
その脱線に次ぐ脱線のせいで、もう三学期だと云うのに自分のクラスだけ「鎌倉時代」を勉強していた。そして恐ろしい事に、期末テストの問題が「現代」だったのを覚えている。皆が赤点 なのも無理のない話だ。

先生とは親しく、よく相談などに乗って戴いた。今でもたまに連絡したりする。とても有難い存在である。
しかし、大抵の相談事に対してのコメントは「昔の事は忘れろ」である。
およそ歴史担当教員としてあるまじき発言だと思うのだが、未だに伏せている。

近いうちに、自分の好きな歴史上の人物、背景や出来事などを書こうと思っている。マニアック過ぎて読むに耐えないかも知れないが…。

さて、誰から書こう。選択に時間が掛かりそうである。そんな余裕はあるのだろうか?
…憂鬱だ。

徳川家康 (1~26)
山岡 荘八 / / 講談社
スコア選択: ★★★★

歴史好きな人は読んだ事があるであろう1冊。最終巻までの道程は長い・・・。

信長の野望 烈風伝 with パワーアップキット
コーエー
スコア選択: ★★★★★

歴史の勉強が遊びながら出来る。対戦で友達を失くさないようご注意!

維新の嵐
コーエー
スコア選択: ★★★★

龍馬で海援隊を作ってたら時間切れになった。幕末はこれ!
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by heartstrings_3 | 2007-02-16 04:50 | 日本史



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